2015年6月1日月曜日

自分には向いてないなんて言わないでほしい

「自分はXXは向いてないと思います」って言い切っちゃう人に何人かお会いする機会があったのだけど、そういう勘違いはもったいないなぁと思う。だって自分が何に向いてるかどうかなんて、相当やってみないとわからないと思うから。

敵を知り己を知るための戦い

20代で判断するなんて、まだ挑戦したいことがどんなことかも、自分が何者かもわからずほとんど一戦もしてない状態だったりするのに。そんなタイミングで戦いをさける上策なんて期待しない方が良いと思う。

僕自身の話をすると、自分が経営者に向いてるとはとても思えない。でもやりたいことがどうしてもあるから、やらせてもらっている。ない自信を無理矢理引っ張り出して、言い聞かせて何とかやっている。こんなところで躓くのかよ、って自分の事が嫌になったり、何食べてるのかわからなくなったりとか、悪戦苦闘している。
それでも支えてもらってる人たちに教えてもらった
  • 出来ない理由より、やりたい気持ちの方が大切
  • やってみないと結局自分も対象もわかんないよね
  • その苦闘を、プロセスを愛するということが起業するということだし、多かれ少なかれ誰もが経験すること
という確信があるから続けることが出来ている。

「やりたいこと」と「出来ること」と「社会に役立つこと」が重なるところを追求したいけど
  • やりたいことが何かわかったのは本当に最近だし
  • 出来ることよりも出来ないことばかり目に付くし
  • 社会がどう自分を必要としてくれるかなんてわからない
だから、3つが重なってるところなんて自分には見えなかった。

最初っからその3つが重なってるところがあるんじゃなくて、その輪っかを見つけたり、フチにぶつかって無理矢理広げたり、妥協したりして居場所を作っていくんだと思う。

そもそもの勘違いの発端

そう勘違いしちゃうのは、社会の仕組み以上に、自分たち自身の認識によるものが大きいのではないか。

まず冒頭の発言をする人に全般的に感じるのは、単に自信がないというケース。

  • 成功しても失敗しても、自分には価値があると信じ切れない
  • もしくはちょっと屈折して、頑張って頑張って成果が出なかったらいよいよ自分のことを認められなくなるから、挑戦しない言い訳をしているあたりがちょうどよい(自分に刺さる。。)
その背景はキャラクタだったり、幼少期の体験だったり、成功体験にたまたまご縁がない青春時代だったりと、環境のせいだったりする。

あと例えば就職活動をしている人で冒頭発言をする人とかからよく感じるのは、
  • 「営業といえば話がうまい人」みたいに職種とコンピテンシーのとらえ方がステレオタイプでときに間違っていたりする
  • 自分の長所・短所・性格・成熟度は定数だと思っている 

ともに環境や時間の関数だと思う。
その背景は「自分を探して」、「適した仕事を探す」という認識の枠組みや、ときに「志」「天職」という言葉が強力すぎたりするんでしょう。変数多いと考えるの大変だから嫌になってしまうかもしれないし。

自分の意見なのか、大多数の「常識」なのかの区別って難しいですが、やりたいことがあるんだったら批判的・建設的に考えるとよいと思う。

ともかく信じてみてほしい

自転車って最初に練習するとき何度も転ぶと思うんだけど、結局乗れるようになる。なんで人が自転車に乗れるようになるかって、沢山転ぶから。なのに大人になると何度も転ぶのが急に難しくなる。「他の大人は転ばない」って思ってるからかな。みんな転びまくってるぜ。

なんで自転車の時は転びながらも挑戦し続けられるのかって「最終的に自転車にのれるのは当たり前である」って思ってるからだと思う。イメージって大切。

だから同じように、ともかく信じてほしいのは、
  • 「向いてるか向いてないか」なんてほとんど誰にもわからない。少なくともかなり挑戦するまでは
  • 実際問題そんなことより、やりたいエネルギーがあるかどうか、つまり好きかどうかの方が全然大切
  • そしてやり続ければ、色んな抜け穴が見つかる、、、はず。そんなやり方もありなのね、っていう。

ということ。

つまり心の声に従って、やりたいことをやったらいいんです。ただそれだけ。

あえてもう一つ加えるなら「自分の個性や生い立ち」「弱み」「モチベーションの維持」とかってほとんどの人にとって、一生形を変えながらつきまとうものだから(という予感)、すぐ解決出来なくてよいんじゃないかな。


ということで、「本当にやってもいいのかな」と迷っている僕とあなたに向けて綴ってみました。

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