2018年10月12日金曜日

【お知らせ】noteにお引っ越ししました

古くはMTやVoxやはてなダイアリー、そしてこのbloggerと長らくお世話になりましたが、noteにブログをお引っ越ししましたので是非興味のある方はそちらを見て頂けると嬉しいです。

https://note.mu/kentaf4

一番の理由は深津さんのnote記事を読んでいて、これからも使い勝手が良くなりそうだなとおもったあたりでしょうか。iPadではbloggerだとまともにかけないのもあるかも。

過去の記事は基本的には持って行けないのでこちらに残しておきます。いくつかnoteに再掲載するかもですが。

お世話になりました。

2018年8月5日日曜日

エネルギー切れる時と自分を変える時に読んでほしいもの

エネルギーが切れた時に読んでほしいもの

参考本:メンタル・タフネス 成功と幸せのための4つのエネルギー管理術
https://amzn.to/2n91f1Y
といいつつ、3年くらい前に読んだので下記はあまりそれに縛られず書いています。

夜ねれない・朝起きれない時に気をつけること

  • 身体系(時間数は自分基準です)
    • コーヒーとアルコールに気をつける。コーヒーは眠る4-8時間前くらいには飲まない方が良い。アルコールは二段階目の分解で刺激物に変わり眠りを浅くするので夜あまり飲まない。飲みすぎた時は十分に水を取る。
    • ブルーライトに気をつける。携帯・タブレットの光は寝る1時間前には見ない
    • お風呂に入ってあったまった身体が冷えていく過程で眠気が出るので、身体が冷える前に布団に入れるように段取りを組む
    • 朝起きた時に朝日を浴びる。体内時計のリセットが大事。水か白湯も飲む
    • いびきがひどいひとは睡眠クリニックに行くべし(自分に向けて)。体質もあるけど、痩せるかアルコールを辞めてもいびきは減る(自分に向けて)
    • 日中15分 - 30分くらいの運動をする(一駅分歩く、とか)
  • メンタル系
    • 正しく優先順位をつける。
      • そもそも睡眠は 人生の中で最も大事な時間の一つと定義するのが良さそう。寝ないと生産性が下がるし、早死にするし。
    • モードを整える。寝るための儀式・リチュアルを作る。
      • レイクロックの本に書いてあった、布団で頭の中に黒板をイメージして、タスクや心配事を全部黒板に書いて、一旦消してから寝る とか
      • そもそもタスクや心配事は全て紙に書き出しておく脳の心配事が減る(GTD)
    • 本当に朝起きられない、起きてもエネルギーが出ないとき、きちんと立ち止まる。
      • まず休む。 少なくとも2日。できればもっと。
      • 今の生活のどのパートがそれを引き起こしているか考える時間を取る。
      • カウンセリング・コーチングなどを活用する

自分のモードを変えたいと言った転機のときに読むもの

参考資料:トランジション ――人生の転機を活かすために
https://amzn.to/2OKZzYP

  • 自分の中の認識、反応、チョイス、行動、結果を変えたい時、それがどういう意図なのか、そのプロセスがいかに美しくて大事なのかを腹落ちするために上記の本はおススメ。
  • 特に自分の決め方、働く理由、パートナーシップ の築き方を変える時はおおきな外面の変化とそれに先立って(もしくは後になって)内的な変化を起こすのがよい
  • そういうタイミングでできる限り自分の素直な声を聞いて決めるのがよし。不安や実現可能性から決めない。
    • 例えば、「自分のwillで物事を決めた方が良いらしい。自分のwillってなんだろう。。。。うーん。わからず。。。 じぶんはダメだ」とか
    • 「これとこれはまぁ仕事にするのは無理だから、この範囲で」の自分で設定している「範囲」を疑えるか
  • will、can、must (社会や他人のneeds) でいうと、
    • 全部が一致しているエリアが最も充実する
    • その次に、できる限り自分のwillで決めていけるのが「楽」
    • でもwillがわからない時、オススメは「他人のneeds」から始めること。だれかいっしょに働きたい人、大切にしたい人が何を必要としているかを考える。「だれ」を選ぶことにwillを使う。なんとなくの自分のまわりにいる他人じゃなくて、「この人に喜んでもらいたい」と自分で選んだ他人。
    • そうするとneeds → can → willの順で一周できることがある。時間がかかってもめげない。僕の場合は15年かかりました

2018年4月16日月曜日

sustainable fashionの時代へ

世界の先端ではsustainable fashionの話をしていた

先日お世話になっている方にお誘いいただき、香港で2日間行われたProduct Innovation Apparelという世界の最先端のアパレル業界の人たちの発表会&勉強会に参加してきました。200人程度の限られた人の参加ながら、誰もが知るような大きなブランドの方々や、業界では知らない人はいないような歴史のある大きな流通の企業まで錚々たるメンツに囲まれて小さくなりつつ、最先端のアパレルを覗いてきました。

沢山の発表、分科会などがありましたが、ざっくり言って2/3はITの話、そして1/3はsustainable fashionの話だったように思います。もちろん主催者の意図も大きいとはおもいますし、supplierと接しやすい香港という土地柄も大きかったとは思いますが、思いのほか本格的なsustainable fashionが多く良い意味で期待を裏切られました。

もともとITに関わっていたこともあり、深層学習で画像をつかって不良検出とか、体のサイズ測定とか、モデルに3Dで服を着させたりする話とか、研究室レベルではなく実際の商品として販売していたのはそれはそれで面白かったです。この辺りは今後5-10年くらいでコモディティ化して一通り導入されるんだろうなという予感がしました。

利益より優先されるCSR調達方針

一方のsustainable fashionについては、CSRなどの観点というよりは全社戦略として取り組んでいらっしゃる企業が増えてきているのではと感じさせる内容でした。特に感動したのが実際に調達担当の方が、バングラデシュの取引先の工場にいかに自社のCSR基準を守ってもらうか、という具体的なセッションでした。最初の最大の発注量を100とした時に、実際半年ごとの監査に合格しなければ75, 50, 25と発注量を自動的に減らしていかなくてはいけない社内基準を設けていらっしゃるそうです。

調達担当からすれば、お客さんの注文に間に合うようになんとしてでもむりやりにでも調達してしまいたいところを、その監査結果は社内で共有され実際発注できないようになっているそうです。相手の工場がずっと基準を守れなければ2年以内には発注できなくなるわけで、別の信頼できる工場を探さなければいけません。これは言うは易し、行うは難しで、本当に大変だとのことでした。思わず僕もどうしてこの社内規則が正当化できるのか、と質問したところ
  • うちの経営トップが、利益より前にresponsibility sourcingを優先すると、決めた
  • purposeが全て、だって僕らは人間じゃないか といういかにもアメリカな感じのお返事をいただきましたが、同時にHRやIRにとってはプラスになっているとのコメントもありました。
社会性と経済性のダブルボトムラインを追求すれば、こういった形で現場へのしわ寄せがまず一旦行くことは間違いありません。そしてそれがサプライチェーンの中で波及していって、立場の弱い人が酷使されてしまうということがずっと起きています。調達担当が納期を妥協しないから、法定の労働時間を超過して働かせるわけで、調達からまず我慢するのが筋でしょう。バングラの工場経営者を責めているだけでは問題解決しないわけです。しかしそれを会社の方針として利益より前に徹底する企業が大企業の中に出てきているのは驚きました。願わくばこれが最終的にマーケティングにのって、消費者の購買行動への変化までつなげていきたいところです。

話はだいぶ込み入ってしまいましたが、sustainable fashionへ世界が向かっていることやその熱狂をメインストリームから感じることができたのは自分にとって大きな確信になりました。

確信と焦り

その確信は僕らのブランド、SALASUSUへの追い風でもあり、同時に焦りをももたらします。あと10年したら日本の企業の多くもsustainable fashionへの舵を大きく切ることになるでしょう。その時に、「話を聞いて見たくなる面白いやつら」のポジションを築けているか。逆にその時に、大手の企業がちょっとしたプロジェクトを始めた方が大きな社会インパクトを出してしまうくらいの吹けば飛ぶ存在にとどまっているのかどうか。それは今の僕たちのあがきにかかっているように思います。

SALASUSUは、Innovationとscaleの両面で、確固たる位置を絶対に築くぞ、という確信をももたらす、そんな旅になりました。No injuryはあたりまえ、Transparent, accountabilitiyの時代が近づいています。さらにその先のempathyのあるものづくりを目指す私たちが世界に何を提示できるのか、ぜひ温かく見守ってください。

2018年2月10日土曜日

自尊心の時間積分という話

自分の価値は自尊心の時間積分
自尊心はどれだけ条件を緩くしていっても自分の存在を自分で承認できるか、という自己認知
なので人生は1つずつ条件を外しながら自分を承認していくプロセス
その阻害要因をなくすのがかものはし、承認するための武器を提供するのがSUSU
と先日自分のfacebookに書いたところ「なんか面白そうなことをいってるんだけど分かりづらい」という声を(自分の親父を含め)多方面からオンライン・オフラインでいただきまして、しかもこの前飲み会でわざわざ説明するということまで行い反省をいたしました。

僕としては一行目にややわかりづらい言葉を入れておくことで、興味の薄い人たちからの批判をされないようにしよう という卑屈な思いがあったのですが、裏目に出ました。
さてなんかテーマ的には面白いと思ったので多少の解説記事を。

自分の価値は自尊心の時間積分

まずそもそも定義がクリアじゃない話が書いてあるのでわかりにくいのですが、自尊心は次の文にかいてあることもあり、僕が思っている時間積分の話を書きますね。

皆さん日ごとに、週ごとに、月ごとに「自分のことをどれくらい好きか」「自分にどれくらい価値を感じるか」って結構上下しないですか?僕がこのfacebookの投稿をすることになった直接のきっかけも、良いミーティングができて気分がすごいアガったのと、うちの工房での問題があってすごいサガったというのがつづけさまに起きて、ジェットコースターみたいな気分になったところから端を発しています。

「自分の価値」というものがあったとして、それはそんなに時間によって上下するような値ではないはずです。ただ、「自分の価値をどう感じるか」というのはすごい変動します。ジェットコースターのように。自信とかもそうですね。

図で書いてみるとこんな感じでしょうか?

で、積分というのは、まさにこの赤い斜線部にあたる面積を求めるということです。自分に価値を高く感じる時間が長ければ長いほど良いよね、といってみたつもりでした。

え、自分がしんどかったことも人生では大事なんじゃないの?

この話を飲み会でしてたとき、一緒にいた別の起業家から「僕は自分が辛かった、自分を認められなくてもがいていた時も大事なタイミングだと思ってます」というツッコミをもらいました。素敵。

僕もその通りだと思っています。

だけどそれは、その経験をきちんと消化して、後から考えるともっと自分のことが好きになるという感じかな、と。その凸凹が自分の後々の自尊心をあげて行くという感じでしょうか。だから凸凹は悪ではなくてむしろ善だとおもいます。

自尊心はどれだけ条件を緩くしていっても自分の存在を自分で承認できるか、という自己認知

さて二行目ですが、これはこの上の曲線をどうやってあげて行くかという話です。

一回のMTGや事件で一喜一憂しすぎたら不安定で大変です。それよりもうすこしベースに自分は「大変な時でも頑張れるから」価値がある、とか、「このポジションで頑張っているから」価値があるとか思えていた方が楽ですよね。

でもそれも条件付きの自己承認なので、職を失ったらとか、人と比べたらといって不安になることは多いです。もっと条件を緩くしていって、究極的には「自分は存在しているので」価値がある。「俺の細胞は分裂しているので」価値がある。くらいに思えると楽です。一定以上落ちなくなります。

なので人生は1つずつ条件を外しながら自分を承認していくプロセス

どういう風なときに上向きになるのか、そのベースは何かということはほとんど人生のテーマみたいな話であり大変難しいことです。もちろんマインドフルネスやポジティブ心理学がいくつかのヒントを与えてはくれるわけですが、自分たち自身の育ってきた環境やトラウマなどによって大きく影響されることでもあります。

例えば親から小さな頃にしっかりと無条件の愛情をうけるとそのベースができやすく、逆に虐待を受けると愛着障害になり基盤が不安定になることと言われています。
もしくは性的な虐待に繰り返しあってしまった人であれば、「自分の体は自分のものではなく、価値がないものだ」と思い込まないと辛くていきていけない、と伺ったことがあります。本当に辛い話です。

そういう辛いことを自分で消化して「それでも自分には価値がある」とか、自分の頑張って行ったことをきちんと認めてあげて「だから自分には価値がある」とおもうことを繰り返していくことでだんだんとその曲線の傾きの極端さがなくなったり、右上に向かっていくことができるのではないでしょうか。それが大事な人生のプロセスだと思います。

その阻害要因をなくすのがかものはし、承認するための武器を提供するのがSUSU

幼いうちにうける性的な人身売買というものは、その基盤を破壊します。だからその被害を少しでも減らして、そんな目にあわせないようにすることが大事。もしくは被害にあってしまった人が自分の体のコントロールをとりもどし、自分の人生のコントロールを取り戻し、自分を愛せるようになる支援をしていくことが大事です。

それがかものはしが取り組んでいることの大部分にあたります。だから阻害要因をなくす、と書きました。

そしてその先に、もしくは多くの方々がどうやってどんどん自分で自信をつけて人生に立ち向かっていくかということにチャレンジするときの武器を提供しているのがSUSUだと思います。安心安全な職場で品質の高いものづくりに仲間と取り組みながら得ることができる、「ライフスキル」という武器を手に社会に旅立っていく女性たちの旅を応援する団体だからです。

もうすぐかものはしを卒業するわけですが、そういう意味では本当に地続きの事業をやっている二つの団体。今後も手を取り合っていきたいと思います。

2018年1月11日木曜日

縦と横の多文化共生のための「謝る力」と「学ぶ姿」

世界を席巻するポリコレ、表面的な振る舞いを変えるだけでは解決できないこと

パワハラ、セクハラ問題、ポリコレのこと、例えば芸能界や角界の悪習が世間の目にさらされ批判されることなどがあちこちで起きている。

そんな中、自らを顧みることなく、どうやら安全な側・正解でいる側をいち早く判断して、他人を叩くための道具としてポリコレを活用しているような人になってしまわないように気をつけたいところである。残念ながらそういう誘惑は常にある。

そして人間の感情やもしかしたら生理的な嫌悪感のことを無視してポリコレであれば良いと蓋をすると、世界が分断化するのではないかという不安すらある。表現や差別的な言動というのはあくまでも表面的な兆しであって、その下にはそれが起きてしまう構造とメンタルモデルがある。

単に自分が無知だったため、知らずに人を傷つけてしまったことはきちんと謝って行動を改めれば良い。ただ正義によってはそう簡単には受け入れられないような鬱屈とした感情と向き合わなくてはいけないこともある。

それを紐解くには、自分が持つ抵抗感や嫌悪感と対峙することしかない。それが自分のトラウマだったり、親との関係だったり、シンプルな誤解(もしくはその間違いを認められない弱さ)に基づいていたりするわけだ。

残念ながらその紐解き作業は表現を規制したところで自動的に起こるわけではない。しかしその作業を進めていかないと「表面的にはおとなしくせざるを得ないが、まったく納得していないひとたち」が大量生産されるのである。

例えばその作業の中で自分のアイデンティティを脅かすような疑問すら出てくるかもしれない。あくまでも想像の事例だけども「自分がホモフォビアなのは自分のバイセクシャル性と向き合えないからではないか」とか、「セクハラに怒りを感じるのは、自分の性的衝動を我慢していることに向き合えないかもしれない」とか。その怒りは投影だったり、悲しみだったりする。

例えば「どうして自分はこんなに苦労をさせられているのに、あいつはずっと勝手なことばかり言っているのか」と怒りをもったとき、敵は自分の「苦労をさせられているという認識」という被害者性であって「あいつ」ではない。

本当に持続的な多文化共生社会は一人一人が自分の中の怒りや悲しみに折り合いをつけていく先にあるのではないか、と思う。

横の多文化共生。迫り来る正義を自分の体に通すということ

セクハラの撲滅やポリコレといったような水平的な文化同士の混じり合いはインターネットやグローバリゼーションの中で急速に起きている。ハリウッドでセクハラが断罪されれば、1年以内に日本でもそれは断罪される。少なくともセクハラは必ずなくならなくてはいけないことだから、この動きは僕も共感できることである。

ただ、セクハラがおきなくなっても、例えば男性一人一人の性的な衝動や抑圧感、性的な劣等感(というんだろうか、自分の男性としての魅力に対する劣等感)がなくなるわけではない。モテたいという感情、でも立場を利用して人を誘惑したりしては絶対いけない、という正義。人は感情の生き物なのだからこそ、そういう痛みを乗り越えて、理性で自分を乗りこなすのだ。

正義をアドボカシーすることは本当に大切だ。ただ同時にその痛みや感情に好奇心を向けられないそういう正義は単に人を追い詰めることになる。例えばこのまま表現の規制が進んだらどうなるんだろうという不安を消化するスペースがないまま、表現への過剰なダメ出しが進むことはいたずらに人を対立させる。アドボカシーのAGENDAが正しければ正しいほど、人にinquiryすることとのバランスに気をつけるべきである。それは最近下記の記事に書いてあることで、非常に共感した。

THE DAWN OF SYSTEM LEADERSHIP by PETER SENGE, HAL HAMILTON & JOHN KANIA

ルールが変わりつつあるんだよ。それは例えばアメリカでこういう表現が沢山の人をこう傷つけたから、意図はどうあれ結果としてその表現はもう許されないんだよ。 ということが、その人が受けいられるように伝えていく工夫が必要だ。受取手の過去を無邪気に断罪する正義の押し付けは、持続的な多文化共生を考える上で障害になると思う。

縦の多文化共生。変わり続ける世代のアタリマエ

もう一つの多文化はいわゆる世代間ギャップである。

女性の社会進出、人権思想や民主主義などいくつか市民権をえている思想が世の中を席巻して行く。ポリコレもそうだけど、15年前に許されていた表現が突然許されなくなることがある。その流れは基本的には不可逆である。正確にいうと、(カンボジアの中国化やなんか見ていると本当に不可逆かは疑問があるものの)その流れを不可逆にするために戦って行く人が多く、僕もその1人である。

その時代の断層が縦に積み重なって行く。同じ地域にいても世代間で文化が違う。

僕にとって身近な例で言えば、カンボジアの都市化・産業構造の変化なんかがまさにそれにあたる。都市化と工業化が進むから突然農村人口が減って行く。たとえ農村に残りたい気持ちはあっても、個人には抗えない大きな動きである。これからもっともっと核家族化や生産性の強化が進み人と人の距離は変わっていく。

カンボジア人が子どもに優しいのはいつまで続くか

たとえばすごく主観的な意見だが、今カンボジア人はすごく子どもに優しい。お店で赤ちゃんが騒いでも店員が楽しそうにあやしてくれる。(これはすごいことだ。赤ちゃんの泣き声っていうのはその本質からして不快に聞こえるようにできているわけで。)

その背景には、まず兄弟の人数が多く子どもの面倒を見ることが多くの人にとって当たり前であることや、農村の地縁の中でほかの赤ちゃんの面倒を見ることがあったり、はたまたサービス産業の生産性が厳しく問われていない中で暇な店員が多いということであったりに基づいているからかもしれない。

しかしそれはきっとこの先カンボジアから失われていく。

例えば「子どもをなぜ4、5人も産まないのか」と何気なく聞くようなカンボジアの文化は急速に失われている。それは都市部での出生率は急速に低下しているからだと思う。その背景には、みんなできれば高校、大学に入れたいと思い始めたことかもしれないし、女性の社会進出にあるかもしれない。ある程度当然の流れだし止める必要もない。

カンボジアを好きな1人の人間として、勝手に国の未来を想像して、郷愁を感じるという独り相撲だけども。一縷の望みとしては、産業構造の変化や人口の増減ということがあまりにも急速に起きていることと、他国の情報が本当にリアルに感じられるようになった現代においては、カンボジアは日本が辿った縦の変化を必ずしも経験する必要はないかもしれないということだろうか。

まずは謝る力、学ぶ姿勢を鍛えることから

カンボジアのシェムリアップという街に住んでいて感じることだが、縦と横の多文化共生が本当に急速に進んでいく世の中である。

まずその流れの中で自分ができることは何か。それは思うに「謝る力」と「学ぶ姿勢」を鍛えることではないだろうか。

「そんな意図はなかったのに」多文化のなかで人を傷つけてしまうことは残念ながら誰にでも起きうる。僕も沢山の人を傷つけてきたしまだ気づいていないこともたくさんあると思う。そんなときにきちんと謝れることが大事だと思う。それは下記の記事を見て学んだこと。

「それ差別ですよ」といわれたときに謝る方法(リンクを張ろうとおもったのだが非公開になってしまっているので辞めておく)

迫り来る正義や他人の価値観、そしてそこで感じる痛みや怒りから抉り出される自分の過去やトラウマ。それと折り合いをつけていくには、しっかりと目の前の人との人間関係を続けていきながら、学びを止めないことではないか。もちろん学びは1人で続けられるものではない。信頼できる人やコーチと少しずつ進めていくのだ。

友人の皆さんへ。自分が何か間違った振る舞いや表現をしていたらどうか恐れずそれを指摘してほしい。僕には学ぶ力がある。少なくとも、自分は学べると信じることはやめない。

願わくばより持続的な多文化共生が進んでいけるように、一人一人に寄り添ったり学びを続けていく流れを加速させていきたい。それがライフスキル教育を進めていく僕の願いでもある。

2018年1月7日日曜日

宝物はなんですか?

「青木さんの宝物はなんですか?」

スタディーツアーで来た高校生と語り合う時間の中で、こんな質問をもらった。何気ない質問かもしれないが、なんとなくその時の自分に刺さったのでメモ。

まず頭に浮かんだのは娘のこと、家族のこと。まぁベタですが自分以外で自分の本質を大事にしてくれる存在ということでしょうか。

ただあまりそれ以外浮かんでこなくてそもそも「宝物」というメタファーが持つ、何かを所有していてそれに感謝する という感覚があまりないんだな、と気づいた。

面白かったので色々と考えてみたら次に出て来たのは

  • 自分の親が自分を愛情を持って育ててくれたこと、呪いをかけなかったこと
  • 周りにいる人たちが人間として僕を大事にしてくれていること
  • 生まれた場所が安全で思う存分学べる環境があったこと

とかであった。「自分の努力や選択ではない範囲で」「他の人にとっては当たり前ではない環境」についての感謝ですね。

今が宝物です

最後に浮かんで来たのは、今この瞬間(その時であれば高校生と話している瞬間)が楽しい、ということだった。全てに感謝、みたいになるとちょっとポエムな感じでこっぱずかしいんだけども、割とありがたいとおもっている。

今この文字を打っている瞬間も僕の細胞は分裂をしていて、DNAはコピーを続けているということ。僕が凹んでもなんで生きているんだろ、とか悩んだとて、勝手に生き続けようとする体。それは僕が努力していないにもかかわらず、当たり前ではない環境として与えてもらったまず最初のかけがえのないものですね。僕の意識にとっては。

前に倒れそうになったら自然と足が出る、ということ

どこかで書いた気もするのだけど、僕の小学校の校長先生(だったか教頭先生だったか)が生徒の質問に答えた言葉が割と気に入っている。登山の時だったかな

「先生、疲れて歩けません。どうしたらいいですか?」
という質問に対して
「前に倒れてみなさい。自然と足が出るから。」
という回答だったはず。

先生にとっては単なる冗談だったかもしれないけども、今考えてみると、「自分はあきらめても、ほら体は生きたいって言ってるよ。頑張りたいっていってるよ。 」ということかもしれない。

生きる「意味」に迷ったら、体に聞いてみるのも良いかもしれない。
もちろん、ひたすら前に進めや! みたいな話じゃないですからね。

2017年11月25日土曜日

3秒、3分、それ以降

ストーリーでうるのか、物でうるのか

僕たちは紛れもなくものづくりをしてその商品をカンボジアや日本で販売しております。なのでフェアトレード、エシカルファッションなどというくくりで捉えてもらうことも多く、実際ものづくりを行うその場所や、社会インパクトについては非常に大きなこだわりがあったうえでものづくりをやっています。

そうすると特に日本で販売をおこなっていくときによく問われることが、「果たして何を売りにするのですか?ものですか? 背景にあるストーリーですか?」という話です。色々な方とそのお話をする中で、わかってきた 共通点、人による違い、そして僕たちが大切にしていることについて考えてみます。

アパレルの方には「当然ストーリーだよね」、フェアトレード好きの一般消費者には「もので売れますよ!」と言われる

人は普段みて考えているものと比べて僕たちの商品やブランドをジャッジしています。
普段から非常にたくさんの良いものを見ているかたにしてみれば、まだまだ僕たちの商品は凡百のアパレルと一緒。土俵にはのっているものの、結局14000社あると言われるアパレルと同じ商品を、より少ないお金と人材で売っていくってそれはムリですよね。むしろ、ストーリーが新しい。

一方NGOや「支援」という文脈からものをみられた方は、そのマーケットの中で本当に日本人が普段使いしたくなるようなクオリティの商品が少ないこともあり、私達の商品をお褒めいただくことが多いです。

でも、入り方は多少違ったとしても、結局「人に勧めるか」「何度も買うか」という点で考えたらあくまでも「まず真っ当な商品を出して土俵にのって」「ストーリーで差別化をしていく」という当たり前の結論しかないわけです。それが殆どの商品でできていないから、フェアトレードで成功しているのはどうしてもチョコレートとコーヒーに偏ってしまう。

「3秒、3分、それ以降」の順番を忘れない

ということで、僕たちが大切にしているのはあくまでも人が物を買う順番でものを考えようということです。それがこの言葉。

みなさんがものを買うとき、まず最初は一瞬で判断していると思うんですね。長くても3秒。そこで「カワイイ」かどうか。本当に微妙なフォルムの違いだったり、detailの作り込みだったり、色合いだったりを本当に一瞬でジャッジします。自分が取捨選択してきた商品のデータベースを蓄積して作った価値観のベクトルとの一致でという感じでしょうか。人それぞれ沢山の種類の違う「カワイイ」がありながらも、色々な人同士での共通のNGがあるように思います。

そしてその次の関門が「3分」。そこでもストーリーが入ってくる余地はありません。そこで行われるのは、「素材、縫製などのつくり、機能、丈夫さ、使用シーン」と「値段」を較べるという作業じゃないでしょうか。

ストーリーの話はやっとこの後に出てきます。買う最後のひと押しになることもあるかもしれません。ただ多くの場合は衝動的にかった後になって、「なんでこのブランドのもの買っちゃったんだっけ?」「そういえばどんなとこだっけ?」と興味をもったときにそのブランドを「好き」になるのがストーリーだったりします。

最初の二つの関門は殆ど自動的に店員の説明の前に行われるステップなので、ものと置き方でその関門を突破しない限り決して沢山の人に商品が届くことはない、それを肝に命じてものづくりをしています。

あたりまえ、だけど長い道のり。

これ、偉そうに書いてるんですが、本当にあたりまえのことです。でもクチャというカンボジアの農村で始めた工房で9年前にものをつくりはじめたときには、日本で商品販売のその土俵にちゃんと上がれる日が来るとは想像できませんでした。

クチャ村からヒカリエへ
土俵にのぼったらそこからは違う戦い方があります。それをまた語れる日がくるまで粛々と頑張ります!

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